2014年3月12日の監督訃報を受けてのメッセージ


「ヴェラ・ヒチロヴァー

      in Japan 1991年」


 Eva Miklas-Takamine

(エヴァ・ミクラス・高嶺)

 


 

 今からもう23年前のことになります。幸運なことに、女流映画監督、ヴェラ・ヒチロヴァーが来日された時に通訳として二週間近くもの時間を一緒に過ごすことができました。当時、粕三平さん(くまがいマキさんのお父様)のプロデュースで全国の小さな映画館でヒチロヴァー監督『ひなぎく』の映画を上映していました。それに合わせて監督が来日されたのです。遠い昔のことだけに、細かなところはあまり覚えていませんが、いくつかの場面は未だにはっきりと記憶に残っています。ヒチロヴァー監督と共に、当時オーストラリアに住んでいた(亡命した?)お兄さんのジュリアンも来日し、一緒に行動する場面がありました。ご兄妹で会われたのはおそらく久しぶりのことでした。ある日、都心をタクシーで移動する時に、私はちょうどヒチロヴァー兄妹に挟まれて後部座席の真ん中に座っていました。何が原因だったのか覚えていませんが、お二人は突然激しく議論し出し、走行している最中にヴェラさんは突然車から降りようとしていました。幸いなことに、日本のタクシーのドアは手動で開きませんでした….。
 
 このような激しい場面はいくつかありました。原宿にある会場で『ひなぎく』の上映後に監督と田嶋陽子さんの対談イベントが行われる予定でした。上映中、会場の裏で関係者と一緒に待っていた監督は突然会場を覗きに行き、しばらくしたら、ものすごく怒った顔で私たちが待っていたところに戻ってきました。私の手をとって、引っ張りながらその場所を離れようとしました。後から知りましたが、画質があまり良くなかったようです。かなり長い時間、関係者と激しくもめていて、通訳の私までも完全に巻き込まれてしまいました。そのもめ合いはおそらく一時間以上かかりましたが、どうにかヒチロヴァー監督を説得して、会場で待っていた聴衆の前で田嶋さんとの対談が行われました。その時、こちらも相当疲れておりましたが、お二人の女性問題についての激しい意見交換を通訳していました。当時の緊張感は今でもよく覚えています。文化の違いもあり、「これをストレートに訳したら国際問題になるかも知れない」とヒヤヒヤさせるような強烈な発言の連続でした….。
 
 仕事上では全く妥協を知らない人でしたが、普段のヴェラさんはものすごく優しい方でした。素直で、まるで少女みたいなところがありました。
 監督がチェコに帰られたあとも、プラハの自宅に呼んでいただいたことがあります。ヴェラさんは私との再会を本当に喜んで下さって、一生懸命手料理を作って下さいました。意外に家庭的なタイプで、とても温かく、素敵な方でした。
 この数年、プラハに帰る度にお会いできればと思っていましたが、いつも限られた時間しかなかったため、連絡するに至りませんでした。
 先日、亡くなられたことを知り、本当に悲しかったと同時に、もう一度監督にお会いしたかった、せめて連絡だけでもしておけば良かったと、心の底から思いました。

Eva Miklas-Takamine(エヴァ・ミクラス・高嶺)
CZECH CENTRE TOKYO(チェコセンター東京)代表


「ヴィェラ・ヒチロヴァーという現象」

 ペトル・ホリー

 先日、ヴィェラ・ヒチロヴァー監督の訃報を目にした時、私はにわかに信じられなかった。え?いやちょっと待てよ、彼女の歳は? そうか、もう85歳になるんだっけ、というような想いが頭の中を巡った。それほど、私たち観る側にとって彼女という女性はパワフルで、実に年齢不詳であったのだ。とはいえ、彼女のカラカラの声、特に、Rの発音は特徴的であった。ゆえに、今もなおヒチロヴァー監督はよく物真似されており、たくさんの逸話の主人公として登場する。
 ヒチロヴァー監督の図像学(イコノグラフィー)は、20世紀後半の映画界において、更にはチェコ・ヌーヴェル・ヴァーグを語るにおいて、決して欠かすことのできない偉大な人物のひとりである。ファム(FAMU・プラハ芸術アカデミー映画学部)の学生、その他の映画人にとってヒチロヴァー監督は伝説的な存在であり、恐るべき雷神、文字通りのファム・ファタルであった。一歩も下がろうとしない、妥協を知らない、常に忌憚のない意見を投じ、旧チェコスロヴァキアの社会主義時代(1948年〜1989年)の当局の幹部をさえも恐れる事なく、己の映画製作をつき通した女性だった。とても強い、正々堂々とした女性だったのだ。
 近年、日本では「ひなぎく」(Sedmikrásky、1966年)で有名なヒチロヴァー監督だが、彼女の作品を長いスパムで見ると、そのドキュメンタリー的な独自性、画像と音楽(彼女の映画音楽を作曲したのはヤン・クルサーク、チェコ映画音楽巨匠と称されるズデニェク・リシュカ、他にはイジー・シュスト、ラツォ・デーチなど)のコラージュの素晴らしさ、言い換えればヒチロヴァー流の図像学(イコノグラフィー)が浮かび上がってくる。
 ヒチロヴァー監督の映画の始まりは1951年まで遡る。モデルをしていたヒチロヴァーはスカウトされ、プラハのバランドフ映画製作所で、今やチェコでは有名な映画、『皇帝のパン職人』(Císařův pekař, マルチン・フリッチ監督)の三人官女の一人を演じることになった。ちなみに、この映画の衣装デザイナーは、チェコのアニメーション巨匠として知られるイジー・トゥルンカである。後、1953年に再び、ヒチロヴァーはバランドフの門を叩いた。最初はカチンコ係となった。しかし撮影中、自分がその場面を気に入らないと、自ら「ストップ」と叫び、監督をはじめ、スタッフを騒然とさせたという。ヒチロヴァーは1957年にFAMUの入試を受ける事にした。名門の大学は当時80人の受験者のところ、7人しか取らないという狭き門であった。しかも、厳格な教授として知られたオタカル・ヴァーヴラ監督のクラスであった。入試の実技、口頭試験中に、ヒチロヴァーは「現在、チェコスロヴァキアで作られる映画は気に入らないわ。私はもっと良い作品を作りたい!」と飛ばし、これは名文句になった。ちなみに、ヒチロヴァーの同級生にイジー・メンツル監督(『厳重に監視された列車』、『英国王給仕人に乾杯!』)もいる。
 ヒチロヴァーは学生時代に既に秀作を作っている。フランスで起こったシネマ・ヴェリテ(真実の映画)やベルギーのアニェス・ヴァルダ監督に影響された卒業作品『天井』(Strop)でFAMUを無事に卒業できた。また、ドキュメンタリー映画スタジオで『蚤の一袋分』(Pytel blech、1962年)を撮り、カメラマンにヤロミール・ショフルを招いた。その後、体操選手のエヴァ・ボサーコヴァーを主人公、そして監督本人自らが主役として出演した『何か違うものについて』(O něčem jiném、1963年)を撮った。また、同作品において、イジー・シュリトゥルの音楽に、「チェコのベッシー・スミス」としばしば称されるチェコのシャンソン、ジャズの女性歌手であったエヴァ・オルメロヴァー(1934〜1993)を活動禁止から引っぱり出すことによって、ヒチロヴァーは事実上、彼女を助けた。
 1964年から、チェコの国民的作家ボフミル・フラバル(1914〜1997)の原作『水底の小さな真珠』(Perličky na dně)を題材に、チェコ・ヌーヴェル・ヴァーグを代表する若き監督たち(ヴィェラ・ヒチロヴァー、ヤン・ニェメツ、エヴァルト・ショルム、ヤロミル・イレッシュ、イジー・メンツル)がオムニバス映画を作り始めた。ヒチロヴァーはフラバルの短編『ビュッフェ〈世界〉』(Automat Svět)を選び、プラハの労働者地区として、そしてフラバルの住居として知られるリベニ区の当時実在のビュフェで撮影した。ヒチロヴァーは非役者、つまりビュフェの実際のスタッフを使い、客も常連やその時に居合わせた、平素な人々である。カメラマンに、当時のヒチロヴァーの夫、ヤロスラフ・ルチェラが輝いた。そのカメラ助手をつとめたのは、後にミロス・フォアマン(チェコ語読みではミロシュ・フォルマン、同じくチェコ・ヌーヴェル・ヴァーグの巨匠)の『ヘアー』(1979年)、『アマデウス』(1984年)や『愛の掟』(1989年)などのカメラマンをつとめたミロスラフ・オンドジーチェク(英語読みオンドリチェク)であった。
 当時、若き監督たちを支えたシュミーダ=フィカルというコンビからなる製作グループがあった。1964年、ヒチロヴァーはいよいよ『ひなぎく』のシナリオを当初、「社会主義的若者を題材にした映画」という依頼があって、書き始めたという。執筆中に、ヒチロヴァーは決定的な出会いをした。それは、美術家・脚本家であるエステル・クルンバホヴァー(1923〜1996)との邂逅(かいこう)であった。今や知られたことだが、この出会いから、ご存知の多重層なる『ひなぎく』が生まれた。姉妹でもない、ごくごくありふれた二人のマリエ。「世界が腐敗しているんだ。だから私たちも腐っていこう!」というマリエたち。第一に、社会のモラルの崩壊を様式的に象徴する作品だ。片方は花輪(無垢の意味)、片方はベール(堕落の意味)という様式的な形になっている。一方、破壊をどこまで進める事が出来るか、という課題を当時の社会主義共和国であったチェコスロヴァキアではとても公に言えないのだ。だから、ヒチロヴァーたちはそのメッセージを巧みに映画という表現に隠したのだ。少しでも行間を読んでもらえれば、当時の体制、社会の明らかな批判だと判る。ヒチロヴァー監督曰く「何か犯罪的な事をしてもいい。ただ、それに美しさを着せなければ、誰も許してくれない」という。ようするに、美は全てに勝利する、ということだ。マリエとマリエが色紙を燃やすシーンの音楽にヒチロヴァーはヨハネス・ブラームス作曲「ドイツレクイエム」、第7曲「幸いなるかな、死人のうち、主にありて死ぬるものは」を選択した。私的な意見だが、これほどに美しい、崩壊と堕落を礼讃するシーンをチェコの映画で他で観た事がない。
 2005年にヒチロヴァー監督はエステル・クルンバホヴァーについて2時間超のドキュメンタリー『エステルを探して』を撮った。いつか、皆さんに是非観てもらいたい作品だ。『ひなぎく』のカメラマンは前と同じく、当時、ヒチロヴァー監督の夫であったヤロミール・クチェラ(1925〜1993)だった。彼の実験的なカメラはヒチロヴァー監督を魅了した。なお、製作された直後、『ひなぎく』は1967年5月のチェコスロヴァキア共和国議会において、「国家予算のために欠かせないお金はいかに浪費されているか」と痛烈に酷評され、ヒチロヴァー監督は映画制作活動停止を余儀なくされた。その前、ヒチロヴァー監督夫妻はアメリカで『ひなぎく』を披露することが許され、アンディ・ウォーホル(彼の両親はスロヴァキア出身だった)などと知り合った。1968年8月に、旧ソ連率いるワルシャワ条約機構軍はチェコスロヴァキアに侵入し、自由な風を吹かせていた「プラハの春」に終止符を打った。「プラハの春」の前兆の一つとも言えるチェコのヌーヴェル・ヴァーグの監督たちはバラバラにされ、フォルマン(フォアマン)、ニェメツ、パセル(パッサー)などは亡命し、ヒチロヴァーは6年間、映画を撮影する事を許されなかったのだ。その前に、真実と虚構、生と死をテーマとした傑作『楽園樹の果実を食べて』(Ovoce stromů rajských jíme)を撮った。1969年に初上映を迎えたこの作品は1970年にシカゴのPrix d’Orを受賞したものの、ヒチロヴァー監督は授賞式に行かせてもらえなかった。1970年代のチェコ映画は堕落した。チェコ・ヌーヴェル・ヴァーグの輝きは消え、たくさんの作品はお蔵入りとなった。不幸中の幸い、ヒチロヴァー監督は1976年に『リンゴゲーム』、1979年に『パネルストーリー』、1981年に『避難』、1983年に傑作『かなり遅めの午後のファウヌス』、1985年にホラー映画『オオカミのヒュッテ』、1987年に話題作『道化師と女王』、1988年に劇団スクレプ(地下室)の俳優を配役させた『汚れたばか騒ぎ』を撮り、1989年にチェコスロヴァキアにおける共産主義時代の終焉を迎えた。民主主義時代に突入したヒチロヴァー監督は劣らず映画を撮り続け、自らの痛烈な毒舌、タッチ、世間の見方でたくさんの人に影響を与えつづけてきた。
 3月21日に、ヒチロヴァー監督の葬儀がプラハで営まれた。追悼演説の途中で、ヒチロヴァー監督のあのカラカラ声が、どこからともなく空を横切った:「こんなのを読むな、でたらめさ!」と。ヒチロヴァー監督は自らのお葬式まで演出していたのだった。

ペトル・ホリー
 チェコセンターを退任後、現在は埼玉大学で歌舞伎などの日本文化を教え、

朝日カルチャーセンターでチェコの文化を紹介している。
チェコ蔵(CHEKOGURA)代表。