ユジク阿佐ヶ谷
2016.9.17 『ひなぎく』 ペトル・ホリーさんトーク


ペトル・ホリー
チェコセンターを退任後、現在は女子美術大学でチェコの人形劇とアニメーションを教えられ、朝日カルチャーセンターでチェコの文化を紹介している。
チェコ蔵(CHEKOGURA)代表。
聞き手:くまがいマキ(チェスキー・ケー代表)

今日はヒティロヴァー監督の経歴を貴重な写真を含めてまとめて下さったものがあり、それに沿って、お話しをうかがいたいと思います。

 

ヒティロヴァー監督は1929年に生まれて、2014年に亡くなられました。

 

 ーちょうど日本でリバイバル上映が予定されていた時で訃報をお知らせしたのでご記憶の方もいらっしゃるかと思います。

 

これは若い頃の写真ですが、すごくきれいな方です。ヒティロヴァー監督のお父さんは第一次世界大戦に出兵して、ロシアでチェコスロヴァキア軍団に入り、戦時中に傷を負い、戦後は傷痍軍人の福祉のためのレストラン経営を任されます。駅の構内にそのレストランはあり、お母さんもその仕事を手伝っていた。ですからヒティロヴァー監督は子どもの頃というのは、ずっとどこかの駅のレストランの奥の方にいました。 

 

ー『ひなぎく』にも駅のシーンが出てきますね。

 

駅は色々な映画に出てきます。六歳年上のお兄さんがいて、駅で幼年期を過ごしました。

 

ーお兄さんはのちに亡命されますね。

 

ヒティロヴァー監督が1991年に日本に来られた時に、お兄さんもいきなり来られたそうですね。

 

ー申し合わせたかのように。私たちも全く知らなくて、恐らく、国外で会うのもなかなか難しい状況だったのかもしれないですね。

 

ヒティロヴァー監督が高校を卒業したのは1948年の6月です。その前の2月に共産党クーデターがあって、チェコスロヴァキアは旧共産圏の属国になるという、政治的に苦しい時代で何も出来ない時代でした。高校を卒業して「さあ私はどうしようか?」と思った時に、お兄さんがブルノ工科大学の化学専攻の学生だったので「私も化学をやろう」と思ったそうです。ところがものの見事に入試に落ちてしまった。その後、友達に「あなたは美術が好きだから、建築はどうだ?」と言われて、建築科の入試には通った。

 

ーその時点では、映画との関わりは何もなかった。 

 

はい。ただ、彼女にとって建築をやっていたというのは、映画の画面構成や空間の考え方に関して、とても勉強になったと言っています。

1949年の年末に仲の良かった友達がテキスタイル(洋服を作る)工場の会社に勤めていて、会いに行ったら、ヒティロヴァーさんはモデルとして抜擢されます。

この仕事があって、彼女がとてもきれいだったために、1951年に『皇帝のパン職人』(Císařův pekař, マルチン・フリッチ監督)という映画の脇役に出演することが決まりました。

この作品は脚本を書いたのがイジー・ブルデチュカでしたが、彼は有名な脚本家で、ヒティロヴァーを色々な人に紹介しました。その中に、後に旦那さんになる写真家のカレル・ルディックという人がいました。彼はヒティロヴァーさんをモデルに写真を撮り、結婚しますが、3年間の短い結婚生活でした。

ヒティロヴァー監督の男性遍歴は激しくて、この人も恋人、あの人も恋人という噂が色々ありました。また嫌いになったらババッと切るということで有名な大変強い女性、尊敬すべき強い女性でした。

最初の旦那さんと別れる時に、彼女はバランドフ映画撮影所という有名な撮影所、ヨーロッパのリトル・ハリウッドと呼ばれる今も現役の撮影所がありますが、映画の経験をして、どうしても映画の仕事をしたいと、門を叩きます。唯一、空きがあるかもしれない職というのは、カチンコ係でした。

ただし、カチンコ係というのは大体、女性の仕事でしたので「誰かが妊娠するか、死なない限り、空かないよ」と言われたそうです(笑)。

 

ー空くのをずっと待ってたんですね(笑)

 

ずーっと待ってて、それがようやく叶って、カチンコ係になって、とある有名な監督の映画の撮影中に、突然、彼女が「ストップ!」って言ったんですって。そしたら現場が騒然としまして「カチンコの野郎が何様のつもりだ」ということで、でも実はそれで彼女は注目されて、後になって監督に「いや実は君があの時、止めたのは正しかった」と言われ認められるわけです。それで、それもあって1957年、名門のプラハ芸術アカデミー映画学科(FAMU)に女性として初めて、監督、つまり映画演出専攻に入ります。

 

 ー同期が名だたる人達ですよね。

同期はご存知のように、イジー・メンツル、エヴァルト・ショルム、ユライ・ヤコビスコ、と、チェコ・ヌーヴェルヴァーグの担い手、当時は卵達だったわけです。入学して彼女は髪の毛をバッサリ切って、ちょっとボーイッシュな頭になります。

それで、1963年に二度目の結婚をしますが、相手がヤロスラフ・クチェラという『ひなぎく』の撮影監督、カメラマンでした。

 

ー年表を見ると、1966年に『ひなぎく』を製作していますが、長女が生まれるのがその二年前で、その二年後に息子さんが生まれていますね。

 

子どもを抱えながら撮影して、彼女のお父さんお母さんは子どもの面倒を見てくれたりしたそうです。

クチェラは実験的な人で、『ひなぎく』でもご覧になったように、一コマ一コマを切り抜いて繋いだり非常に面白いことをやっている人です。(撮影したフィルムの)カラーリングもやりますし、『ひなぎく』のポスターもクチェラが作っています。彼は1991年に癌で亡くなって、亡くなるまで仲良くヒティロヴァーさんと暮らしていましたが、彼女に男性の遍歴があったということは有名です。

長女は衣装デザイナー兼女優で、有名な舞台女優です。息子のシュチェパーン・クチェラは有名なカメラマンで、2004年にクロアチア出身のFAMUの卒業生が『道』(Cesta, ヤスミナ・ブラリチ・ブラジェヴィッチ監督)というヒティロヴァー監督についてのドキュメンタリー作品を作りますが、そのカメラマンもヒティロヴァー監督の実の息子のシュチェパーンです。彼は毎年のようにどこかで賞を貰う、(両親の)遺伝子を感じさせる人です。

60年代というと、チェコスロヴァキアのヌーヴェルヴァーグと言っても過言ではない時代ですが、それを担う女性監督としてヒティロヴァー監督は有名です。

クチェラが、ヒティロヴァー監督にどのように会ったかというと、廊下で普通に会った時に「あなたの映画はイカレているよね」とクチェラがヒティロヴァーに言ったそうです(笑)。実は「映画がイカレている」と言ったのは、ボイチェフ・ヤスニーという別の有名な監督だったそうですが、それをクチェラがヒティロヴァーに言ったことで、それがきっかけで一緒になった。

 

ーヒティロヴァー監督は『ひなぎく』以外にも沢山の映画を作り、日本でも何本も公開されています。一番最後の作品が2009年です。晩年まで精力的に撮影をされていました。

『虐められた愛』(O lásce týrané, 『České milování (チェコの恋愛)』というシリーズの1話、30分)という作品で、亡くなる五年前まで活発に活躍されています。

 

ードキュメンタリーとしては、ヒティロヴァー監督が『ひなぎく』の美術・衣装を担当したエステル・クルンバホヴァーについての『エステルを探して』という作品を撮っています。また、ヒティロヴァー監督に関してのドキュメンタリーは、先ほど紹介した作品とは別にもう一つあって『Golden 60's』という作品だそうですね。

 

『Golden 60's』というのはチェコスロヴァキアのヌーヴェルヴァーグを網羅する大型ドキュメンタリーシリーズで、1時間のドキュメンタリーが25〜6本あって、その内の1本です。2009年にスロヴァキア出身のマルティン・シュリークという人がヒティロヴァーのポートレートを撮っています。マルティン・シュリークは日本では『ガーデン』(Záhrada)という映画などが公開されています。  

ヒティロヴァーさんは、とにかく波乱万丈な方でした。